僕と誰かの日常の記録/妄想文章

個人的なブログ。永遠のど素人が一級建築士試験を受けてみた。小説や映画の感想。思いつきで書く創作的文章など。

「蚊の泣くような頼りない声で」っていうすげえ歌詞

Mr.Childrenの往年の名曲、「つよがり」。。

東京。
独り暮らしの部屋で、日が落ちる頃、何をするあてもなくて、聴いていた。
不安定だった。
何が理由というわけでもなく、僕の中身は、ゆらりゆらりと揺れて、どうやってバランスをとればいいのかすらわからない日々だった。
当時気にかけていた女の子は、僕のことを大勢いる遊び友達の一人としか見てくれてないようだった。

僕は彼女のことを、控えめにいって世界が終わってもいいくらいには好きだった。
ふとした時間に彼女を思い出し(今から思えば、暇なのは非常によくない。人間は日々汗を流していれば煩悩もそれに従って新陳代謝していくものなのだ……)、メールや電話をするべきか悩み、そのうち夜も遅いから明日にしよう、そんな無駄な時間を何夜もループした。

今思えば、自分の孤独を感じる気持ちそれ自体が「好き」という2文字に置き換えられていたような、寂しいからなのか本当に好きなのか、なんていうごちゃ混ぜの感情が尚更自分自身を煽った。
こうなってしまうと、自分でも自分の気持ちが手に負えなくなってくるのがわかる。

共通の友達に電話をかけ、彼女は自分のことをどう思っているだろうかと遠回しに探りを入れた。
普段はノリのいい彼も、その時ばかりはとても面倒臭そうな声で話した。
その頃から僕は独りでいる時間にもアルコールを採るようになった。
誰彼構わず電話をかけて孤独を騙した。
アルコールのおかげでべらべらと心のうちを話すことができた。
でも、次の日の朝には決まって後悔した。

誰も真面目に僕の一方的な片恋の話を聞いてくれなくなった頃、独りの部屋で映画を観たり音楽を聴いたりする時間が増えた。


彼女に会いたかった。

メールの返信はない。

電話は、迷惑になるといけないから、しない。


「蚊の泣くような頼りない声で……」


ニコンポの前に座って、その曲を聴いた。

ああ、自分というものがこんなにも情けなく頼りないなんて。
不安だ。
なんでこんなに不安な気持ちになるんだろう。
時間が経てば、こんな気持ちも嘘みたいに消えてなくなってくれることがあるのだろうか?

この歌詞、これは、今の僕だ。




懐かしい曲が、当時の記憶とセットでプレイバックされることが増えた気がする。

僕はできる限り物事を前向きに捉えたいと常々思っているほうだけれど、これはただ僕の中の事実として、グッとくる鮮烈な記憶のもとになる出来事はいつからか更新されることは少なくなった。
年を取るほど、僕の人生は刺激的な出来事が起こる確率が減り、経験から予想のつく、ある意味で退屈だけれどストレスの貯まらない毎日が待っていた。

それが単純に悲しいことかというと、また自分のなかで賛否両論ある。

思い出がある。
なんとなく虚しさを感じた夜に、15年前のばか騒ぎした1日や、親友に打ち明け話をして聞いてくれた夜の日なんかを、自分を大好きだって言ってくれた人のことが頭をよぎる。
これで一生食べていける、そんな思い出。
弱ったとき、自分を否定してしまいそうになったときは、そんな記憶を繰り返し何回も、何回も思い出すのだ。
だから、古い記憶の在庫はあるけれど、新しいそれはなかなか入ってこないことが、単純に悲しいことだとは僕は思わない。




彼女とは、人に言えるような何の進展もなく、連絡が途絶えた。

こちらが真剣に、というか執着をあらわにすればするほど、彼女が引いていっているのがわかった。でも止められなかった。
最後は僕のメールに返事がなく、永遠にそれは届かないだろうと僕でも思った。


それからだいぶ経った。
学生だった僕は社会人になり、うっとうしい感情を置き去りにして働いて、少し社会に慣れていった。

当時(彼女との恋煩いを別にしても)いつもまとわりついていた、不安な気持ちは嘘のように、まるで手品のように目の前から突然消えていた。

色々なことに耐性がつき、慣れていくのだろうか。それは強さと呼んでももいいものだろうか?

なにが良くてなにがまずいのか、そんなことはなんだかよくわからないけれど、

ひとつ言えることは、
当時の僕があの心情のなかであの曲をリアルタイムで聴けたことは、今、本当によかったと想える。

なにも起きなかった休日に、エールビールを飲みながら。

ちなみに、今の僕にはミスチルの新曲「documentary film」の歌詞がめちゃめちゃグッとくる。

Mr.Children 1996-2000

Mr.Children 1996-2000

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