一級建築士試験が彼にもたらしたもの
「数年間の紆余曲折を経て、念願だった一級建築士試験にパスした。そこまではいい。でもね、それで君の生活は何か変わったのかい?」
「変わったこと?」
「そうだよ。君はこの数年間で少なからず代償を払ったはずだ。家族との時間、学費、精神的な損耗…。それに見合うようなものはその後得られたのかい?」
「わからない」
「わからないとは面白いね」
「本当にわからないんだ。表面的な変化はない。合格した瞬間から僕という人間が劇的に変化したわけじゃない。地道にやってきたんだ。その積み重ねが結果になっただけだ。ただ、変わったことがあるとすれば…」
「なんだい?それは」
「自分の意識だ。一級建築士を名乗るからには、知識的にも品性も第三者から幻滅されるようなことがあってはならない。僕は以前より勉強するようになったし、できるだけおおらかな態度で人と接するようになった」
「…君が一級建築士の資格を得て変化があったことは本当にそれだけ?」
「僕は、自分の心持ちがこれだけ変わった出来事を数えるほどしか知らない。大人と言われる年齢になってからは特に」
「あるいはそうかもしれないね。君の意見にも一理はある。一級建築士試験の合格がもたらした一番の恩恵は、個人的な精神の充実であると」
「正確には、顧客に対して自分の意見が通りやすくなったり、同業との名刺じゃんけんで負けることがなくなって自虐的な気持ちにならなくて済んだり、細かな変化は感じる。でも、そのたびに複雑な気分になる」
「たとえば、一級建築士試験前日の自分と何が変わったのか?とか」
「まあね」
「いいじゃないか。君は難関といわれる一級建築士試験をパスしたれっきとした一級建築士なんだ。自信を持てよ。君は建築業界で生きていくにはすこしセンシティブすぎる」
「…僕は、この業界でもう少しあがいてみようと思う。少なくとも、10年前には夢物語に感じた一級建築士になることができたのだから」
「君が一級建築士であることの証明を世間に向かって行おうとするならば、それは少なからず第三者にとっても有益なことであるはずだ。頑張ってくれたまえ」
「言われなくてもやってみるよ。よくも悪くもここまで来てしまったんだ。
…ところで、君は誰だ?」