僕と誰かの日常の記録/妄想文章

個人的なブログ。永遠のど素人が一級建築士試験を受けてみた。小説や映画の感想。思いつきで書く創作的文章など。

恋煩い

僕の嫌いな人。

その圧倒的第一位は、無神経な人。

人からこう見られたい。
相手はどう思っているか。
願わくば可も不可も無いくらいでいいので好感を持たれたい。
すこしは話がわかるやつだと思われたい。
間違っても嫌われたくない。こわい。
そんな気持ちが延々と心の片隅にあった。
ずっと、他人の目を気にしながら生きてきてしまった。
でも、僕のなりたくない人間にならないためには、そういった感覚はやはり必要なのだろうと思っていた。

本当にそうだったのだろうか。



忖度しない人間の方が、なぜか相手に好かれることもある。

それは僕の目を通すと、無遠慮なデリカシーのない人間に見えた。

僕は彼や彼女らを憎んだ。

でもそれが嫉妬を含んでいるのかもしれないことに薄々気づいてもいた。

自分がそうなれないことも。

たまたま街で初恋の人を見かけた。傷も癒えかけていた頃だった。
彼女と並んで歩く、背の高い男がいた。彼女は僕の見たことのない表情で彼をみていた。
僕は彼のことを知っていた。
軽口を叩いて周囲を騒がしくさせるのが得意な、お調子者で有名な男だった。
なんにでも率直に物を言う男で、影で彼を批判する人間も多かった。
僕は気づかれないように二人の背中を見送った。
彼女の方から彼に擦り寄せた体の距離が、僕に何かをわからせた。

人は手の届きにくいものに憧れる。



遠い昔のことを振り返れば、僕は、人からどう思われているかばかりを気にして生きてきた。
なんであの時あの台詞を喋ったのだろう、彼にどう思われただろうなんて、一日の終わりにきりもなく反省した。

それは青春期特有の自意識というやつだったのだろう。いつも渦中のなにかには終わってから気づく。

ある程度の経験を繰り返しのように積み重ねた。
すると、その程度のことは僕の人生にとって何の悲劇ももたらさないことがわかり、上手くやり過ごせるようになっていった。
緊張を忘れていった。
手のひらにかさぶたができるみたいに、鈍感に生きていくことができるようになった。

拗らせた自意識から解放され、呼吸は少し楽になった気がした。人と交わした二言三言、特段に重く捉えなくなった。

てきとうにいなせるようになり、社会でのストレスは減った。深く考えることを意図的に辞めれば、リラックスできる。どうせ考えてもどうしようもないことだらけなのだ、社会は。
でも、そういった定型的な毎日の人との関わり(トレーニング)を繰り返しても、まるで意味をなさないこともある。
その渦中においては、僕は未だに自意識の固まりではないかと感じるときがある。
いや、控えめに言って、自意識の固まりになる。恥ずかしいくらい。

恋煩いには、せっかくつくったかさぶたもなにも役に立たない残酷、なんて。