僕と誰かの日常の記録/妄想文章

個人的なブログ。永遠のど素人が一級建築士試験を受けてみた。小説や映画の感想。思いつきで書く創作的文章など。

ぼんやりとしか見えない。

僕は目が悪い。

特に目を酷使している自覚はなく、でも、裸眼ではTVの画面の中の綾瀬はるかの顔もぼやけてしまう。長澤まさみだって石原さとみだって等しくぼやけてしまう。
天気のいい日に遠くの緑を眺めたりして目を休めて、これですこしはよくなるかなぁなんて思ったりもしたけどやっぱり駄目だ。

コンタクトは入れない。怖いから。
異物感がどうなんだろう。子どもの頃に耳鼻科で例のあれを鼻の奥まで突っ込まれてから、体に異物が侵入してくるのが怖くてしょうがない。

僕が自分の視力が下がってきたことを意識したのは大学時代。それは高校の頃からゆっくりと始まっていたのだけれど。
バッティングセンターで、ボールが前に飛ばなかった。フォームが原因だとずっと勘違いしていた。ボールの芯をフルスイングしていたはずだったが、実際は見ていたもの自体が微妙にズレていた。

必要に迫られて眼鏡をかけはじめた。そろそろ黒板の文字も見えにくくなってきたから。
視界が開ける便利さにどんどん眼鏡が手放せなくなって、それと引き換えにさらに視力は落ちていった。ダサ眼鏡といわれながら、僕はなんだかんだ眼鏡をかけ続けた。

クリアに見える世界。

その昔、裸眼からコンタクトにした友人が『別世界だわ!』と興奮していたのを思い出した。

ところで、眼鏡をかける前に僕が見続けた景色は、どこまでが本当のものだったのだろう?

あの景色、あの先輩、あの友人、
あの女の子の笑った顔は、実際はどんな顔だったんだろう?
あの人があのとき見せた表情には、そうあってほしいと思う僕の願望が入ってはしなかっただろうか?まるで都合のいい夢の様に。
ぼやけて見えていた、ということを自覚した頃からそんなことを考えるようになっていた。

バッティングセンターでボールが前に飛ばなかったことは、現実にはフォームが原因なのかもしれなかった。それとも目が悪いからかもしれなかった。今となってはわからなかった。僕はあれからバッターボックスに立ったことがないから。

でも、しばらく経って、ぼやけていたことに妙に安心することもある。これでいいんだと思う時もある。
はっきりさせなくても、それでもいいってようなことも、世の中にはかなり存在するのではないか。そんな風に思えてきた。僕の頭のなかに残っているイメージだけが、もう、過去の全てだ。記憶のなかは美しい方が、幾分か明日を生きやすい。

あのときから眼鏡を新調していない僕の視界は、いつもの相棒をかけていても今ではぼんやりと遠くのものが見えにくい。

でも、見えすぎるのもなんだかな、と思えるときもあるので、そのままにしている。

綺麗な女の人や大勢の人間を目の前にしてもそんなには緊張しない、っていう利点も発見したことだし。