僕と誰かの日常の記録/妄想文章

個人的なブログ。永遠のど素人が一級建築士試験を受けてみた。小説や映画の感想。思いつきで書く創作的文章など。

映画【モテキ】再視聴。

若さとは遠くになりて想うもの

なんてね。

タイトルにあります映画版モテキ、公開当時に一度視聴しているんですが、アマゾンプライムに出てきたのでその日の気分で再視聴。何年越しなのだろう。

本当は【願い】という映画を観ようと思っていたのだが、重い内容が入ってこない精神状態だったためたむたまモテキを選択。
これが新たな発見を、もたらす。

モテキ劇場版は、主人公の藤本幸世(森山未來)31歳が好きな女の子相手に痛々しいドタバタを繰り広げる。主人公の心の声が聴いていて耳を覆いたくなるくらい恥ずかしかった。

共感性羞恥

正直、初めて視聴したときは主人公の自己中心的な発想と行動、じれったい思考回路にため息が漏れた。
直視するのが痛い、見ているだけでこちらにもなぜかダメージがくる。それが藤本幸世だった。

しかし。
時間を経て再視聴している今、そんな藤本幸世の行動のひとつひとつに愛おしさというか、懐かしさというか、そんな好意的な気持ちを抱きながら観ていた。

こんなことがあった気がする。

スナックで飲んでいたら泥酔して、気絶して、友達は解散していて、気のいいホステスのお姉さんのアパートで目が覚めて、お姉さんの子供と一緒に朝飯食べたり。

意中のひとと飲みにいったら彼女の女友達と合流して皆で楽しく飲んでいたけど、内心は笑えていなかったり。

心の琴線を拾ってくる作品だなぁ、と素直に思った。
あの頃、というものをいい角度で抉ってくる作品だ。
もうじれったいとも思わなかったし、自己中心的であろうとそれが若さだと応援する気持ちになった。

ただ、その緩やかな時間を画面越しに共有してもらっていることが素敵だった。ありがとう藤本幸世。そして松尾みゆき(長澤まさみ)様。



いままで、「立場が似ている又は近いから共感する」という感覚は味わってきたけれど、逆に、距離が遠くなるほど好ましく思えるという気持ちは初めてだった。

あの頃には戻れないからこそ、映画を通じてあの頃を束の間プレイバックできればと、でも、2時間の映画が終わればあっという間に物分かりの良いおっさんに戻るのだ。戻りたくない。でも映画は必ず決まった時間に終わる。それはしょうがない。
でも終わらないでほしい、と思ってしまった。ラスト10分。

同族嫌悪、という言葉で合っているのかわからないけれど、当時の僕は彼らとの精神的距離が近すぎて彼らの醸し出す醜さというか青春のえげつなさを直視できなかった。そしてある部分では不快にも感じた。
いや、直視していたというかその輪の中に溶け込んでいて感情的に一体になってしまっていたのかもしれない。

今では、懐かしむように、藤本幸世の暴走も「私にもあったような気がする、こんなことが」と柔な心持ちで眺めることができる。

ある意味では、時間を経て、私小説的なものからエンターテインメント的なものに僕の見方が変わっていったのかも。(語弊があるかもしれない)

今日の視聴体験は僕にとって、とても素晴らしくて心地よかった。

時間が過ぎて年をとって、楽になることもある。

画面の中の藤本幸世を現世と切り離した完全なるエンターテイメントとして楽しめる、懐かしめる年代になってしまったのだ。
何が起こっても他人事である。対岸の火事である。


正直この事実に僕はほっとしている。
だって辛いもの。藤本幸世みたいな感じ。

でもそれと同時に、
画面の中の彼をとても羨ましく思ったよ。