僕と誰かの日常の記録/妄想文章

個人的なブログ。永遠のど素人が一級建築士試験を受けてみた。小説や映画の感想。思いつきで書く創作的文章など。

午前2時のカップヌードル考察

午前2時。
しばらく迷った末に結局、食器棚の中に在庫してあったカップラーメンを啜っている。

降って沸いた明日の休日、少し夜更かししてお酒を飲んだら、塩っぽいものが食べたくなってしまったのだ。

深夜のカップラーメンなんて何年ぶりに食べるのだろう。
もちろん定番のカップヌードル(しょうゆ)だ。
もう戻らないでも忘れないあの頃の味がするのかと思ったら、久しぶりのカップラーメンの味は今までに感じたことのないくらい舌に濃ゆく残り、背徳感満載のスープの匂いが鼻を覆った。

十数年前の深夜2時には、隣で仲良くカップラーメンを啜る友達がいたし、なにより、僕たちの体はまだ余分な脂肪を溜め込まず、背徳感なんか微塵もないところにいた。
深夜、煙草をふかし、宅飲みのシメにカップヌードルを食らっても、若かりし僕らの精神はある意味では健全だったのだ。

僕のアパートは、実家暮らしや寮生活の友人たちの格好のたまり場のようになっていて、その日も、友達と酒を飲んでいたはずだ。
酒が切れて、少し離れたコンビニに買い出しに行こうとサンダルをつっかけて玄関を出た。

ふらふらと覚束ない足元で、街灯が等間隔に並んだ路地を、何が面白いのかばか笑いしながら歩いたそのシーンだけを記憶している。

家に帰ると、床にあぐらをかいてカップヌードルを啜りながら、合間に宛のない話をした。
ちょっとかわいいなって思う身近な女の子の話だったり、あのアーティストのこの曲聴いたか?とか、そんな話。思いつくまま。


今、僕は独りでダイニングテーブルに向かい、カップヌードルを啜っている。ずず、という音が自分の耳によく響く静寂の午前2時だ。

迷いに迷って明日の胃もたれさえも覚悟して啜った今日のカップラーメンは、不思議と、十数年前の罪悪感のない夜食より一口がはっきりとくっきりと感じた。

油分を摂取することに葛藤もなく時間さえも気にせず食べることができた頃より、なぜか、今の方が五臓六腑に染み渡る。それとも、体調やなんかの偶然の重なった一夜の奇跡?

繰り返すほど、年をとるほど、厚い瘡蓋の上からのように鈍くなっていくもんだと思ってた。
なにもかもあの頃のみずみずしさを越えられないと思い込んでいた僕は、何かを発見した気になった。

想い出の味を今からでもたくさんつくってやろうか、なんて。

それでこんな文章を日記につけている。

たまにするいけないことほど、甘美な体験となりやすいのかなぁ、という話。たぶん違うと思う。